【映画「浮雲」-クラシック日本映画選―13」石渡均】
 ここでの「浮雲」とは林芙美子の小説を成瀬己喜男監督が製作した映画である。自分は、成瀬監督の映画を観た記憶がない。成瀬監督は、林芙美子ののうち「めし」、(51年)、「稲妻」(52年)、「妻」(53年)、「晩菊」(54年)、「浮雲」(55年)、「放浪記(63年)と6本製作しているという。どうしてこんなに多く、林の作品を映画化したかの経緯は、この評論に記されている。そしてわかるのは、ドラマなりにくい、生活感覚や男女関係の機微を巧みな文章力で表現した林の作品を、その雰囲気の真実性を、選りすぐって場面化することに、手腕が発揮できたからであろう、という事が記されている。文章芸術と映像芸術の本質的な関係と、異質な関係が大変丁寧に描かれている。
 幸い林芙美子の作品は青空文庫で読めるので、「浮雲」ここでは書き出しのところを引用するーーなるべく、夜更けに着く汽車を選びたいと、三日間の収容所を出ると、わざと、敦賀の町で、一日ぶらぶらしてゐた。六十人余りの女達とは収容所で別れて、税関の倉庫に近い、荒物屋兼お休み処どころといつた、家をみつけて、そこで独りになつて、ゆき子は、久しぶりに故国の畳に寝転ぶことが出来た。――
 自分は、なぜ彼女の作品は、出だしで、主人公の生活ぶりに興味を抱くようにかけるのか、関心をもった時期がある。スピード感とエネルギー。さらに「めし」という晩年の未完の作品を読んでみるとよい。短い文章の行簡にある意味深さ。それらを読むと、もし映像かしたら干物のようなものになってしまうだろうと思わせる。しかし、成瀬己喜男監督は、その味を表現したのであろう。身につまされるように。
 森雅之や高峰秀子など、俳優の活用と脚本の工夫など、文章に現象よる現象表現と、映像によるそれとの違いを、考えさせる勉強になる評論である。
【「まあるい大きな手」小田嶋進】
 私は顎に一本髭が生えている。それが秘密で悩みらしい。どうってことないのに、何が問題か、思っていたら、私が思春期の女性だとわかった。お話しとして、構成順序を考えていない。断片集らしい。てコンビニ店の男の指の美しさに見惚れる。その他、つながりが前衛的な感覚の表現話。
【「風花が舞う」衛藤潤】
 出だしが、「気がつくと、香織のことばかり考えている。」難しい短編の出だしの縛りと感じていたら、作者はそれを縛りと考えていないらしかった。それだけに散漫な印象。
【「こども居酒屋」衛藤潤】
 そういうのあるのか、と思って読んだが、よく分からなかった。
 その他、二人の写真家の作品はいい。「澪」HPで見られるものもある。

 

文芸同志会通信